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2010年11月

2010年11月25日 (木)

東京都青少年健全育成条例改正案の問題点と対案(1)

東京都は、12月定例議会に、青少年条例の改正案を再提出した。これは、3月に継続審議、6月に否決された案の修正出直しである。ネット規制は多少トーンダウン、児童ポルノ単純所持も引っ込めたが、マンガ表現規制は全く前のとおりかそれ以上である。非実在青少年という用語をやめただけで、別の限定をしないために、18歳未満の児童に限定していた前回案よりも規制強化することになっている。

私は、岩波書店の月刊誌『世界』1月号(128日発売)に、条例制定過程が、1、極めて乱暴な運びであったこと、2、特定の人物がかかわっていたことを、詳細に論じ批判した。このブログでは、その補完と、さらに本音の主張をしたい。

この条例案の問題点と対案(私案)を書いてみる。

問題点17条の2と9条の2で、「漫画、アニメーションその他の画像で、刑罰法規に触れる性行為」と近親相姦を「不当に賛美し又は誇張するように、描写し、又は表現する・・・」を規制対象とする部分。

 「刑法典に触れる性犯罪」なら、強姦と強制わいせつの類だけとなるが、刑罰法規なら、範囲が大きく広がる(詳細は山口貴士弁護士のブログを参照)。刑罰法規には、いわゆる淫行条例、東京都の場合は、この青少年条例18条の6「何人も、青少年とみだらな性交又は性交類似行為を行ってはならない。」が含まれる。したがって、高校生同士の合意に基づく性行為が対象となり、中高生を主人公にしたマンガは、性体験を肯定的に描くと規制対象となるおそれがある。「みだら」の中身しだいである。

」問題2 8条の2で有害図書指定の対処として「第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように描写し、又は表現する・・・」をあげている部分。

 「著しく社会規範に反する性交」が拡大解釈されると、不倫、同性愛など無限に広がる可能性がある。権力の禁欲が最大限求められる表現の自由の規制としては許容できない。明確に「強姦と強制わいせつを著しく不当に賛美し又は誇張する・・・」でよいはずである。わざわざ、社会規範がでてくるのは、なぜか。私が考えてみたところ、消去法でボーイズラブをターゲットとしているとしか思えない。

 私は、漫画だから何でもありとは主張しない。歯止めは必要であると考える。その立場からは、対案を考えなければならない。

近親相姦についてまず、考察してみよう。神話などでのメタファーとしての重要性などの指摘は、都議会では通用しないから脇においておこう。刑法的には、親子間近親相姦の場合は、親の姿態をとがめれば刑法175条ないし、元からこの条例にある7条の1、「性的感情を刺激し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」を使える。つまり、改正必要なしである。このことは、子ども同士の近親相姦のみが対象であることを示している。前田雅英と竹花生活安全局長(当時)の議論を読めば、年齢が低くなればなるほど、その裸は、わいせつ性が低下し、性的な刺激も低下するから、児童ポルノ禁止という別の取り締まり道具が必要ということである。この場合もスナップ写真ではなく性交場面なら、大人が児童と性交しているなら、大人の姿態をとがめれば、条例改正は必要ない。つまりは、子供同士の性交がターゲットなのである。児童の定義を18歳未満にすれば、中高生の性行動に網がかけられるというのが規制派の本音であると私は理解している。マンガの中の出来事にここまで踏み込むのは倒錯的である。警察は、現実世界での刑罰法規に触れる行為の担当であって、それ以上(道徳担当)ではない。

ということは対案は、規制の盲点であった、極めて小さい年齢の子どもだけを対象にすればよい。非常に手ごろな、線引きがある。20055月から実施されている、性犯罪者の再犯防止のための法務省から警察庁への「出所者情報提供制度」は、13歳未満の子供に対する暴力的な性犯罪に限定している。子どもを守るには、これで十分と考える。槍玉にあがった「奥サマは小学生」も、これなら規制対象となる。

対案:

7条の2の部分、「漫画、アニメーションその他の画像で、13歳未満の子供に対する暴力的な性犯罪を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し、又は表現する・・・」を提案したい。

8条の2の部分、社会規範云々は全面削除し、「強姦と強制わいせつを著しく不当に賛美し又は誇張する・・・」を提案したい。

2010年11月16日 (火)

裁判員制度初の死刑判決について(2)

横浜地裁の朝山裁判長は「あなたは法廷ではいかなる刑にも服すると述べているが、重大な結論ですから、裁判所としては控訴することを勧めます」と最後につけ加えた。これは、おそらく裁判長の個人プレーではなく評議のなかで合意されての発言と考える。

これについては、単純に、この評決が死刑を決める最終決定としてほしくないという、やや逃げ腰の姿勢と見ることもできる。控訴審で確定すれば、市民としては多少とも重荷から逃れられるというわけである。

しかし、私は、あたっているかどうかはさておき、もっと深読みしたい。事実認定で、動機について、覚醒剤の利権を得るために殺したとか、ボスの命令というより自分が提案したとか、被告本人の証言は、自分を悪者にする方向で徹底していた。家族の情状関係の証言も、自分が望んで証拠から排除してもらっている。近藤が逮捕されたり、事実関係が違うことになれば、控訴審で無期刑の可能性が全くないわけではない。

複雑な話だが、ひとつの伝統として、第一審で死刑、控訴審でも死刑、そして最後に最高裁で無期刑という場合があった。一審の後の被告の行状の変化などを観察して控訴審で刑罰が軽くなることは、有期刑でも珍しくないことである。裁判員裁判でも民事賠償がされたことで軽くなった例がある。そもそも、反省を促し、賠償をさせるなどして刑罰を軽くできれば、これはむしろ成功である。死刑の場合は、まず、死刑判決をブツケテ様子をみたい。今回の池田被告の場合、公判で、被害者遺族と会い、自分の家族の手紙を聞き、それらによって、人間性が回復されつつあるようにみえる。その点は、判決文も認めている。もし、私に全権限があれば、どうするか。今現在の被告の、ようやく人間性を取りもどしはじめた現段階では、死刑と宣告し、様子を見て、最終的には死刑執行しないでおきたい。三審制の時はできたが、裁判員裁判において、一旦死刑判決をだしてから様子をみたいような今回のようなケースで控訴審は、どう扱えば良いのか。この点は、制度上は決められていないことであるが、深く考える価値があると思う。

裁判員制度初の死刑判決について(1)

 新聞報道ベースで事件をおさらいすると、被告は、覚醒剤密輸組織に入って活動しており、そちらで検挙された。逮捕当日、殺人事件について自首した。殺人事件とは、その密輸グループのボス近藤に頼まれ、マージャン店の経営権を巡って近藤とトラブルがあった男二名(28歳と36歳)を、20096月に数名で拉致し殺害したことである。そのうちひとりは、高速回転式の切断機を使用し、生きたまま首を切断した。二人の遺体をバラバラにして、金沢区の海や富士山麓に捨てた事件である。ひとりからは1300万以上のお金を取り上げ、強盗殺人である。

 これだけの情報だと、死刑の可能性が高いと感じる人が多いであろう。

 公判のやり取りの全記録を読むと、被告が、偽悪家というか、全部俺がかぶってやるよというタイプの人物であることが読み取れる。犯罪組織に入ったのも妹の医療費のためであるなど、石井隆の『天使のはらわた』の主人公を思い出させられる。ボスがさらに上にいることと、なぜ下っ端に汚れ仕事を押しつけなかったか気になるところである。

 乱暴に整理すれば、凄惨な殺人事件の犯人は、二種類に分けられる。元は善人であったのに悪魔が宿ったような場合と、共感する能力が欠損した非人間的な人格障害者である。池田被告は、前者に属する印象が強く、人間性が残っていることが公判で現れている。そのため、無期刑判決の可能性もあると見ていた。

 蓋をあけると、死刑判決であった。

 東京新聞と産経新聞に、私のコメントが明日の朝刊に出るはずである。

 このブルグでは、そこでは言えないストレートな言説を掲載してみたい。

 第一印象は、裁判官が主導し、永山基準を守り、死刑としたということである。折角、裁判員裁判制度の導入のおかげで判例に縛られずに判断できるのに、裁判官達に、その思い切りがなかったというのがストレートな感想である。

 一般市民の裁判員に注目が集まるが、裁判官の誰かが賛同しない量刑はできない規定である。はじめから、裁判官三人の最高と最低の幅に結論が収まる、完全に裁判官に保護された状態で量刑は決まる仕組みである。市民裁判員は、小中学校の授業参観にいく父母のようにその場にいるような面もあるのである。市民参加は正しい量刑のためではなく、むしろ、評議などを通して裁判官と裁判員が接触することに意義はあると考えている。

2010年11月14日 (日)

はじめまして

 様々な媒体から情報発信してきましたが、本日より、ブログによる意見と情報の発信をはじめたいと思います。その理由は次の二点です。

理由1:インターネットと社会の関係についてより深く理解するために、実際に使ってみる。

理由2:紙媒体での発信に限界を感じるため。

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